本離れの弊害
子どもたちが読書をしなくなったと言われていますが、それによって起こる語彙の減少、読解力や集中力の低下は、国語以外の科目を指導している時にも頻繁に感じられます。どうして本を読まないのかと彼らに聞いてみると、「疲れる」「面倒臭い」といった返事が返ってきます。インターネットやスマートフォンなどの普及によって、気軽に楽しい体験ができる環境に慣れてしまい、読書のように忍耐力を要する作業は敬遠されてしまうのでしょう。確かに、同じ内容ならば本で読むより映像で見たりゲームで体験したりする方が簡単だと言われれば、それは否定できません。しかし、それでも本を読むことは人生において重要であり、不可欠なものだと断言できます。それは何故でしょうか。様々な分野で多くの提言をしている齋藤孝氏(明治大学教授)の著書「読書のチカラ」にいくつかの重要な指摘があるので、ご紹介していきます。
本は自分を映す鏡である
他人と接しながら生きていく上で、自分がどういう人間なのか、他人からどのように見られているのか、そういう客観的な視点を持つことは絶対的に必要です。しかし、自分自身を騙してしまう人、または自分の言動の意味に気付かない人がいて、こういう人は何があっても本質的に反省できないため、いずれ人から遠ざけられる可能性が高いでしょう。これは要するに、自分自身に対する理解力が欠けているところから生じる事態です。では周囲の人がその人の短所を指摘して気付かせてあげればよいかというと、これがそう簡単ではありません。誰でも自分の痛いところを突かれれば、とっさに「そんなことはない」「〇〇のせいだ」と自己正当化するからです。これが本であれば攻撃性はかなり薄くなり、受け止める側の心理的抵抗も抑えられるでしょう。本を読み進めていくうちに、そこに自分を投影させ、少しずつ「そういえば自分も・・・」と素直に自省する気持ちが芽生えてきます。感情を持った他人から指摘されるのと違って、ただの物体である本から自分で気づいたことは、比較的受け入れやすいものです。つまり、本を読む行為が、自分を見つめ直す鏡になっているということです。
少し面倒だからこそ、成長につながる
軽く楽しめるものは必ずしも自分を伸ばしてくれるわけではありません。例えば筋力トレーニングでも、辛いからといって運動の回数を減らして実行してもなかなか筋肉は付かないでしょう。筋肉痛になるぐらいの運動を繰り返して、ようやく成果が出てくるのです。成長するためには、やはりある程度の負荷がかかるものに耐える必要があると言えます。その点、読書は文字から映像を思い起こしたり、書かれている思想を自分の頭の中で咀嚼したりと、相応のトレーニング効果があります。最近スマートフォンが流行っていますが、いかに便利で楽しいといえど、自分の時間の多くをそこに注ぎ込んでしまうのは、いかにももったいないと思います。楽しさはあるものの、何の成長も期待できないからです。人間の意識は、放っておくとつい楽な方へ向きがちです。本を読む習慣を意識的に作って、1日の生活の中に読書時間を確保したほうがいいでしょう。
書店の重要性
単に情報だけの面ならば確かにネットの情報量は膨大で、利用価値は高いと言えます。しかし、選ぶ情報が自分の興味のある分野だけに偏ってしまうという欠点があります。特定の知識が深まるものの、幅の広がりは期待できません。しかも交友関係が限られ、似た者同士でのコミュニケーションが多いと、見聞きする知識や情報もさらに限定的になります。その結果、興味のない分野に関してはとことん疎くなるのです。書店に行くと、自分の興味のない分野の本も自然に目に入ります。ちょっと手に取って試しにパラパラっと見てみるということもできます。こうして知的好奇心が刺激される機会が増えるのです。